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橋本努『社会科学の人間学』勁草書房(1999)

 

終 章 結 論

 

 

 いまやわれわれは、本書の議論全体を展望しうる地点に到達した。最後に本章では、これまでの考察において示した主張を総括しよう。
 われわれが最初に立てた問いは、「社会科学的認識の人間学的意義とは何か」という問題であった。言い換えれば、「社会科学的認識の営みはどのような人格を陶冶しうるか」という問題であった。この問題に対してわれわれは、自由主義の立場から接近した。自由主義は一般に、人格の理想については中立的な思想であると考えられているが、しかしわれわれは、自由主義社会を豊穣化する担い手を陶冶するような「成長論的自由主義」(=プロジェクトとしての自由主義)というヴィジョンに立脚して、次のように問題を捉え返した。すなわち、社会科学の認識という営みは、いかにして成長論的自由主義の担い手となる人格(人間類型)を陶冶しうるのか。これが本書において設定された基本問題であった。
 この問題に対してわれわれがどのような接近を試みたのかについては、すでに序章の第三節において略述したとおりである。ここでは本書が代替的に提示した人格モデルについて、基本的な支柱のみを提示したい。


1.ウェーバー流の社会科学においては、その認識の営みを通じて「近代主体」という人格理念を陶冶すべきことが主張されてきた。これに対して社会科学は新たに、「問題主体」という別の人格理念を構想することができる。「問題主体」とは、問題を人格のコアにおくような人格の理念であり、それは「近代主体」のさまざまな難点を克服したものとして提示されている。その場合、社会科学は「認識の問題化機能」を用いて「問題主体」を陶冶することができる。

2.社会科学的認識の営みが陶冶すべき人格理念として、「決断主義」に代わる〈成長論的主体〉という別の人格理念を構想することができる。〈成長論的主体〉とは、可謬的真理に服してすぐれた価値を模索するような、成長に開かれた人格の理想である。その場合、社会科学は「真理メディア説」を採用することによって、〈成長論的主体〉を陶冶することができる。

3.責任倫理を担う高次の人格の理念として、「拮抗的高揚主体」を構想することができる。「拮抗的高揚主体」は、ウェーバーの責任倫理論における一側面を強調して解釈された人格理念であり、それは諸価値の緊張関係をバネにして精神の高揚を遂げるような、一つの人格の理想である。その場合、社会科学は「認識の拮抗的高揚機能」を用いて、「拮抗的高揚主体」を陶冶することができる。

4.成長論的自由主義の担い手として、「運命的闘争主体」という人格理念を構想することができる。「運命的闘争主体」は、ウェーバーのいう「神々の闘争」を担う人格のモデルとして構成されたものであり、それは、自己の運命を認識しつつ、諸価値の闘争を人格の内部と外部の両方において引き受けるような人格である。その場合、社会科学は「認識の運命化機能」と「認識の暴露機能」を用いて、「運命的闘争主体」を陶冶することができる。

5.望ましい社会科学方法論として、「問題自由」という方法論を構想することができる。「問題自由」とは、一義的な解答を得ることのできない「意味問題」に対して、自分で問題設定することを引き受けるべきだと要請する方法論である。この方法論は、「価値自由」の一部を拡大解釈して得られたものであり、最初に提示した人格理念である「問題主体」を陶冶するものとして位置づけられる。


以上の諸命題において基礎におかれる命題は、第一命題、すなわち「近代主体」に代替しうるモデルとしての「問題主体」である。これに対して〈成長論的主体〉、「拮抗的高揚主体」、および「運命的闘争主体」は、この「問題主体」を補う人格モデルとして位置づけられる。〈成長論的主体〉は、成長へ向けて模索するために、問題を人格のコアにおくことが必要となる。「拮抗的高揚主体」もまた、精神の拮抗的高揚を補完するために、問題をコアにおくことが必要となる。さらに「運命的闘争主体」は、究極の問題を自ら選び取ることが運命への自由であるとする点で、「問題主体」を要請する。これらの人格モデルを「問題主体」を中心にして統一すると、われわれは、成長論的自由主義の担い手となるべき綜合的な人格像を得ることができるだろう。「問題主体−成長論的主体−拮抗的高揚主体−運命的闘争主体」という綜合的人格像を、ここでは簡単に〈問題主体〉と呼ぶことにしたい。〈問題主体〉は、社会科学が陶冶しうる新たな人格理念であり、本書においてこの理想は、既存のウェーバー解釈から得られる人格理念と対質するなかで提示された。
 もっとも〈問題主体〉の諸特徴がウェーバーにおける人格の諸理念とどのように異なるかについては、ウェーバーをどう解釈するかに依存する。なるほど「問題主体」と〈成長論的主体〉は、従来のウェーバー論から得られるさまざまな人格理念と対決関係に置かれているが、これに対して「拮抗的高揚主体」と「運命的闘争主体」は、ウェーバーのモチーフから得られる一つのモデルであり、ウェーバーと親和的である。ただしその場合、「拮抗的高揚主体」は、「近代主体」の特徴をもたない点でウェーバー的でなく、また「運命的闘争主体」は、人格内分化を推進する点で、ウェーバーよりもジンメルに近い。それゆえわれわれは、綜合的人格モデルとしての〈問題主体〉を、どの思想家の理念像とも区別して、独自の人格モデルとして提案することにしたい。
 〈問題主体〉は、社会認識に携わる人たちに要請される人格理念であると同時に、また成長論的自由主義のすぐれた担い手としても構想されている。〈問題主体〉と成長論的自由主義の関係について本書が示したことは、次のような企図である。

a.問題分轄による自生化主義:「問題主体」が活躍できるためには、社会問題を主題化しつつ、それを個別化して自生的に解決できるように、制度の自生的秩序化作用を積極的に利用することが重要である。
b.フォーラム型の社会:「成長論的主体」を陶冶するためには、批判的な価値討議によって成長への共同投企を企てるような、フォーラム型の社会システムが要請される。そこでは「成長への自由」、すなわち、特定の目標を集団的に達成するという制御から解放され、新たな未来へ向けて自己と他者と社会を成長させていくような自由が要請される。
c.社会−人格同型論:「拮抗的高揚主体」は、社会−人格同型論の考え方、すなわち、社会と人格がともに「諸価値の拮抗的関係」と「諸問題」から成り立つとする考え方に接続されるならば、「問題主体」に適合的な人格モデルとなる。また、社会と人格がともに「問題」から構成されているとみなす見解は、価値多元性を許容しつつ社会秩序を保持するような、成長論的自由主義の思想的基盤を提供する。
d.開かれた闘争的秩序としての自由主義:「運命的闘争主体」は、自らの究極の問題を選んで闘争することを運命として認識する。その場合、@「自由のために闘争すること」が運命づけられており、A差異の汎闘争化を企てるならば、「成長への自由」と「通用的価値からの自由」をもたらすことができる。そのような営みは、いくつかの条件を満たすことによって、開かれた闘争的秩序を生み出すことができる。


以上の諸命題は、自由主義社会を豊穣なものにする社会構想、すなわち「成長論的自由主義」を推進するものとして提案されている。もっともわれわれの提案は、社会科学の認識を営む場合に有効な理念として提示されている点で、成長論的自由主義の全体構想としては不十分である。しかし以上の議論によってわれわれは、成長論的自由主義の担い手となる人格理念を、社会科学的認識の営みを通じてどのように構想しうるのかという問題に、一定の応答を示すことができたと考える。
 またこの他にも本書は、以下のような点で知識の成長に貢献している。自己やアイデンティティや人格といった類似概念の分析的整理、Iとmeの関係規定、役割関係と呼応関係の区別、パーソナリティ要因における分化の意義、実践的振舞の諸次元の整理、近代主体の六類型の構成と検討、文化人の類型化、決断や選択や必然性といった類概念の現象学的分析、象徴的期待効用としての決断、責任が人格と社会に及ぼす機能の分析、決断主義批判に対する再批判、決断主体における真理論・原点論・責任論に対する批判、運動主体と批判的合理主義の類型化、「日常」の物語化に関する分析、価値合理性の概念規定、精神的緊張に対する態度の分析、価値に対する責任の八類型、結果に対する責任の八類型、責任倫理の八類型、運命概念の分析、運命の類型学、決断と運命の反転的性格、悲劇的運命の考察、闘争概念の規定、闘争の類型学、闘争の正機能の分析、開かれた闘争の諸条件、プロ倫テーゼにおける価値と問題の関係に関する分析、社会科学システムの分化に関する考察、社会科学における価値の入り込み方に関する分析、観点・理念・関心の概念規定、客観性の分析、「価値自由」概念の機能論的分析、などである。本書の基本的主張は、こうした知的貢献を携えて提出されている。
 最後に、本書の趣意に対する誤解を塞ぐために、いくつかの注記を示しておきたい。
 まず、われわれが〈問題主体〉というモデルを提出する際に、なぜウェーバーを論じる必要があったのかという疑問が沸くとすれば、それは研究課題の性質によるのだと答えることができる。本書の課題は、社会科学的認識の営みによって陶冶しうるような、自由主義の人間的基礎を構想することにあった。そのような試みは、ウェーバーの方法論における一つのモチーフを継承すると同時に、日本におけるウェーバー受容の特殊性――ウェーバーから善き人格と善き社会の構想を考えるという課題――を引き継ぐものである。したがってウェーバーを論じることは、学問を発展的に継承するために不可欠な手続きであった。またわれわれは、ウェーバーとはまったく別の人格モデルを提出したのではなく、例えば「拮抗的高揚主体」と「運命的闘争主体」は、ウェーバーのアイディアを発展させた人格モデルである。こうした点において本研究は、ウェーバー的主題の発展的継承として位置づけることができる。
 第二に、ここで提出した〈問題主体〉は、人間を無限の努力へと駆り立てる人格理念として構想されているので、それが実現不可能だからといって放棄されるべき性質のものではない。しかし他方でわれわれの主張は、他の魅力的な人格理念をすべて否定しうるものではない。「成長論的自由主義」という思想理念からすれば、さまざまな人格理念が拮抗関係に置かれること自体が一つの社会的理想となる(第二章参照)。したがって〈問題主体〉という人格理念は、他の人格理念と拮抗しつつも相対的に優位であるようなプロジェクトとして提案されている。
 第三に、〈問題主体〉を目指さなくても、人は自由社会のよき市民となりうる。〈問題主体〉は「成長論的自由主義」のフロンティア精神であるが、他方で「制度としての自由主義」という観点から見るならば、そのような社会においては他の多くの人格理念を許容することができるし、またさまざまな善き生活が可能である。社会を成立させる制度的条件としての自由主義は、なるほど必要であり不可欠である。しかしわれわれの関心は、社会を多元的に豊穣化するプロジェクトとしての「成長論的自由主義」におかれている。
 第四に、〈問題主体〉は、「社会を認識する人」すべてに対する呼びかけとして提案されている。この提案が真摯に受け止められるためには、別のすぐれた人格理念との対抗関係において、人格の承認をめぐる討議を経なければならないだろう。そうでなければ、われわれが提出した人格理念は、たんなる好みの問題として片付けられてしまうかもしれない。社会科学の認識という営みを通じて陶冶しうる人格というものに意義を見いださなければ、〈問題主体〉という人格理念そのものが無意味なものとして映るほかない。そうした「無意味化」は、なるほど社会科学の進展とともに避けられないことであるかもしれないが、しかし逆に、意味への渇望が生じることも、しばしば避けられないことである。